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教職員2人、教育関係者5人をあらたに合葬
教育塔前で第87回教育祭を開催しました。

第87回教育祭合葬者

今回の新たな合葬者は7人で、その内訳は、教職員2人、教育関係者5人です。

  

教育現場では、常態化する長時間労働や激務の中で、心身の健康がむしばまれた結果、亡くなられる教職員が増えています。病気の早期発見・治療やメンタルヘルスの推進等はもとより、多忙な状況の解消や長時間労働の是正がなによりも求められています。

合葬者7人 
教職員2人 児童・生徒0人 保護者・校医0人 教育関係者5人 特別合葬0人
合  葬 教 職 員 児童・生徒 保護者・校医 教育関係者 特別合葬
交通事故 0 0 0 0 0
教育活動中 0 0 0 0 0
病死 2 0 0 4 0
その他 0 0 0 1 0
地震災害 0 0 0 0 0
大阪城公園内の教育塔前で第87回教育祭を開催

1934年の室戸台風で未来への道が閉ざされてしまった多くの子ども・教職員を追悼し、その名を永くとどめるために建てられたのが教育塔です。それを契機に、教育に関わる活動で尊い生命を失った子ども、教職員、教育関係者の方々を心から追悼し、その名を永くとどめ、不幸な出来事が再び起こらないことを願って執り行われてきたのが教育祭です。

第87回教育祭は、10月30日(日)、第86回で参列のかなわなかったご遺族も同席のもと、開催されました。今回は新たに7人が合葬され、合葬者総数は27,286人となりました。

10時からはじまった祭典では、主催者を代表して、瀧本司日本教職員組合中央執行委員長が追悼の詞を述べました。その中では、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻や温暖化の影響による相次ぐ自然災害、未だ収束しない新型コロナウイルス感染症の現状等にふれ、一日も早い戦争の終結を願うとともに、安心で持続可能な社会につながる社会のあり方や生活のあり方を根本から問い直すこと、またすべての子どもたちが安心して暮らし、学ぶことができる社会の必要性を訴えました。また、子どもの貧困や貧困の連鎖が社会問題化し、いじめや不登校、児童虐待の件数が過去最多となる中、23年4月に発足するこども家庭庁に対し、すべての子どもの命や権利が保障され、居場所のある家庭や学校・社会になるよう、そのとりくみに期待をするとともに、22年成立したこども基本法の理念のもと、子どもどうし、子どもと教職員、保護者・地域と教職員のつながりを大切にし、子どもたちが互いを認め合い、未来への夢や希望を持てるようにしていかなければならないと述べました。そして変わらず深刻な問題となっている教職員の長時間労働については、22年9月に公表された(公財)連合総研の調査において、在校等時間が15年調査と比べても減少しておらず、依然として過労死ラインを越えていることが明らかになったことにふれ、「働き方の問題は子どもとの関わりや学びにも影響を及ぼす重要な課題であり、長時間労働の是正につながる実効性ある方策を求めるとともに、具体的な改善のとりくみをすすめていく」と決意を述べました。また東日本大震災から11年、熊本地震から6年が経過した現在も復興への道のりは未だ途上にあり、転居先、転校先での暮らしを余儀なくされている子どもや、放射線の影響に不安をいだきながら学校生活を送らなければならない子どもたちに対し、寄り添い続けなければならないことも再度確認しました。

今回合葬された宮川雄至さんと職場をともにした教職員の代表として、山梨県の伊藤晴紀さんが、追悼の詞を述べました。伊藤さんは「尊敬する先輩、宮川雄至先生へ」と志半ばで病に倒れ亡くなった宮川さんに対し、「宮川先生と初めて会ったのは、昨年度の4月でした。2人とも異動してきたばかりで、ぎこちない挨拶や会話をしたのを覚えています。それからは、席も近く歳も近いということもあり、少しずつ話をすることが増えていきましたね。私は、よく授業のことや子どもへの指導についてたくさん相談をさせてもらいました。宮川先生は、疲れている時や忙しい時でも嫌と言わずに親身になって相談にのってくれました」と、仕事終わりに食事をしながら話に花が咲いたことなど、宮川さんとの思い出を偲びました。また3年生や1年生の担任として、子どものことを常に考え、子どもたちと接する宮川さんが仲良く楽しそうに授業をしたり遊んだりする姿を日々見てきたといいます。そのような最中、つい数日前まで連絡を取っていた宮川さんの急な訃報に、伊藤さんは信じることができず、今でも「急に目の前に現れていつものように笑い話ができるのではないかと思っています」と述べました。また、「自分の中で上手くいかないことや悩むことがあった時は、宮川先生ならどうするだろうかと考えてしまいます。その時は、優しくときに厳しくアドバイスをくれた宮川先生の姿が頭の中に浮かびます。宮川先生は常に私の心の中にいると思っています。これからも困ったことや悩みがあればたくさん相談させてください。そして私だけでなく、学校の全員を、宮川先生の優しくときに厳しい視線で温かく見守っていてください」と呼びかけました。最後に、「さよならを言うともう会えなくなりそうなので言いません。また会える日まで」と述べ、追悼の詞を締めくくりました。

また、遺族を代表し、冨井恭二さんのご遺族の松村麻衣さんが謝辞を述べました。大阪高教組の立ち上げにかかわり、書記長・委員長を歴任し、退職後も大阪府高等学校・支援学校退職教職員連絡協議会の副会長として活動に注力してきた冨井さんについて、松村さんは「父は社会科教員として定時制高校に30年以上勤め、生徒と向き合う学校現場を何より大切にし、人権教育、平和教育、解放教育の推進など、さまざまな人達の学習権を保障するための運動に取り組み、多忙な教員生活を送っていたようです」と述べ、多忙な中でも「私たち3人兄妹が子どもの頃は、授業参観や個人面談に出向いたり、お弁当や晩ご飯を準備したりして、家事や子育ても母と分担しながらこなしていました」と、在りし日の冨井さんを偲びました。退職後も大学の非常勤講師や戦争史研究会等の研究活動や、退職者会の運営など精力的に活動する中、退職者の交流会の下見に出かけた先での不慮の事故にまきこまれた冨井さんに、松村さんは「父が退職後に熱心に活動した退職者会は、『教え子を再び戦場に送らない』、その理念のもと組織されたと聞いております。父は現役の時から日本の近現代史、特に戦争について熱心に研究していました。平和教育や人権教育を次の世代に引き継ぐために頑張っていたのだと思います。不慮の事故で亡くなるときもその活動の最中でした。突然のことで本人もやり残したことがたくさんあったと思いますが、父が遺していった意思を引き継いで行くことが私たち、次の世代の役目だと思っています」と誓い、謝辞を締めくくりました。

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