教育塔・教育祭とは

教育塔の由来

 1934921日、室戸台風が関西地方を襲いました。秒速60mという強風及び大高潮はあらゆる方面に大惨事を及ぼしました。

 学校においては始業の前後でもあり多数の木造校舎が倒壊し、教職員25人をはじめ600人を超す子どもたちが亡くなるなどの甚大な被害がありました。災害直後、大阪の教育界は二度とこのような惨事が起こらないことを願って、子ども、教職員を追悼し、永く記憶にとどめるため、記念碑の建設を発議し、帝国教育会が臨時総会において記念塔を建設することを決定しました。全国の教育関係者はこの呼びかけにこたえ、児童・生徒、教職員、一般有志の方から225千円を超える寄付が寄せられました。

 1935年9月に地鎮祭、1936年(昭和11年)8月に定礎式が行われ、1030日に大阪城公園内に教育塔が竣工し、同日に第1回教育祭が行われました。

 公募により塔の設計は島川精さん、塔正面のレリーフは長谷川義起さんが選ばれました。教育塔建設費には137千円、式典費、準備費等を含め総額18万円3千円ほどかかりました。

教育塔の維持管理及び教育祭の運営

 1944年、帝国教育会が日本教育会へと改組され、1948年には日本教育会が解散したことにともない、日本教職員組合が塔の維持・管理と教育祭の主催を受け継ぎました。

 戦後の長い年月の中で塔内外とも破損がすすみ、日本教職員組合は塔の再建費用を全組合員に募りました。基金は2千万円を目標にしましたが、最終的に1億5千万円が集められました。 

 教育祭は、教育塔の建設当時から神式あるいは仏式で行われていましたが、日本教職員組合が教育祭の主催者となって以降、宗教・国籍を問わず合葬できるよう、宗教色をなくすよう努めてまいりました。

 1981年には、教育塔内正面の塔芯文「咸一其徳」(咸其の徳を一にす)から「やすらかに」に改め、塔芯裏の「説明文」を戦前調のものから現代風に改めました。 

 1986年には「合祀」を「合葬(がっそう)」に、「祭主」を「主催者」に「奉納音楽」を「追悼音楽」に、献花中の音楽を「越天楽」から「葬送曲」に変更しました。

 第50回(1985年)教育祭では180人が合葬され、特別合葬者の中には御巣鷹山での日航機墜落事故(1985年)の犠牲者41人が含まれています。 

 第60回(1995年)教育祭では、阪神・淡路大震災で自宅の倒壊や火災により亡くなった121人の特別合葬者を含む154人が合葬されました。これにむけ、日本教職員組合は約2千万円をかけて教育塔の外観や内部の大補修を行いました。また、「教育塔説明掲示板」を全面的に書き改め、戦後の憲法・’47教育基本法の理念に立って教育塔・教育祭を運営していることや、阪神・淡路大震災の犠牲者の追悼、戦後50年を機に恒久平和を願い執り行われていることを記しています。

 第70回(2005年)教育祭では、新潟県中越地震により亡くなった4人の特別合葬者を、第77回(2012年)、78回(2013年)、79回(2014年)の教育祭では東日本大震災の犠牲となられた51人の特別合葬者を含む方々を合葬しています。

教育塔のすがた

 教育塔は大阪市中央区馬場町大阪城公園、大手前広場東南地区に建っています。面積は333㎡で、塔は鉄筋コンクリートを芯に、外側にはイタリアから取り寄せた白色の花崗岩を貼ってあります。塔の正面レリーフには災害時の情景と講堂での訓書清読の場面が描かれています。

 塔の下の中央には162㎡の芳名室があります。芳名室の中央には「やすらかに」と書かれた石碑が建っています。両側にはそれぞれ86㎡の芳名室があります。

 芳名室には合葬された方々の名前が書かれた芳名板が納められ、合葬された方は約2万7千人に及びます。

教育塔に合葬される方

 学校等の教育時間中・活動中(通学途中を含む)に亡くなられた方、人命救助や不慮の災害によって亡くなられた方等(宗教・国籍を問わず。1年以上さかのぼっても可)を合葬しています。

 なお、審査は本人のご遺族及び学校から申請をいただき、日本教職員組合に設置された審査委員会により慎重な審査のうえ決定されます。

 新たに合葬される対象者をご存じでしたら各県の教職員組合までお知らせください。